SNSに流れる”その一言”
Xのタイムラインを流し見していたら、あるポストで指が止まった。
「夫が死んで2年。好きな人ができた。でも毎晩、仏壇の前に立てなくなった」
リプライ欄には「気持ちわかります」が並んでいて、いいねが3000を超えていた。
…なんでこんなに伸びてるんだろう。 と思って、よく読んだら、わかった。
これ、「共感」じゃなくて「告白」なんだ。 誰にも言えなかったことを、名前も顔も出さないSNSにだけ、こっそり吐き出した人の声。
似たようなポストは、探せばいくらでも出てくる。 「死別後の恋愛って、許されるんですか」 「3年経ったのに、まだ罪悪感が消えない」 「新しい人のことを考えるたびに、亡くなった妻の顔が浮かぶ」
令和の恋バナのなかで、これほど静かに、深く刺さるジャンルはないかもしれない。
ある夜の、仏壇の前
Aさん(40代前半・女性)の話を聞いたのは、ある秋の夜のことだった。
夫を病気で亡くしたのは、3年前。 子どもは中学生がひとり。 仕事と育児でギリギリの日々を送るうち、気づけば時間だけが経っていた。
職場の同僚の男性と、少しずつ話すようになったのはその年の春。 最初は残業後のコンビニ帰り、ただの雑談。 それが、だんだん、帰り道が一緒になって。
(やばい、これって…)
気づいた瞬間、胸の奥がぎゅっとなったらしい。 喜びじゃない。 もっと複雑な、罪悪感と期待が一緒くたになったような、あの感じ。
帰宅して、仏壇の前に座れなかった。 夫の写真を、直視できなかった。
「私、最低だよね」
誰に言うわけでもなく、暗い部屋でひとり、そう呟いたと言っていた。
「罪悪感」の正体を、ゆっくりほどいてみる
「喪に服す期間」って、誰が決めたんだっけ
法律的に言えば、死別後の再婚禁止期間は女性に対して100日と定められている(民法733条・2022年改正)。 でも、恋愛を「いつから始めていいか」を決める法律は、この世に存在しない。
なのに私たちは、なんとなく「1年は待つべき」「3回忌が済むまでは」みたいな”空気の法律”を信じている。
誰かに言われたわけじゃない。 でも、破ったら怒られそうな気がする。
…これ、すごく令和っぽい現象だと思う。 SNSが「世間の目」を可視化してしまったせいで、私たちは常に”誰かに見られている感覚”で生きるようになった。
仏壇の前で写真を直視できなかったAさんの視線の先には、亡き夫だけじゃなく、見えない”世間”の目もあったんじゃないか。
罪悪感の正体は「愛していた証拠」だ、という話
グリーフ(悲嘆)の研究者たちがずっと言い続けていることがある。
「死別後に恋愛感情が芽生えることへの罪悪感は、亡くなった人をどれだけ愛していたかの裏返しである」
マジで、これ。
罪悪感を感じない人は、最初から大して愛していなかった人だ――とまで言う研究者もいる(かなり過激だけど)。
つまり、仏壇の前に立てなかったAさんは、最低なんかじゃない。 むしろ、誠実に愛した人間にしか味わえない痛みを、ちゃんと引き受けていた。
(でも、それを「だから恋愛していい」と自分に言い聞かせるのって、なんでこんなに難しいんだろう)
前の配偶者への愛と、新しい恋愛感情は「別の引き出し」にある
「前の人を忘れないと、次に進めない」
よく聞くけど、本当にそうだろうか。
親を2人愛せるように。 子どもが2人いても、どちらも全力で愛せるように。
人間の愛情は、「ひとつを愛すると別が消える」仕組みにはなっていない。
新しい人を好きになることは、夫(妻)を忘れることじゃない。 別の引き出しに、新しい感情が入っただけ。
…それが、頭ではわかっていても。 胸の奥がざわざわするのはなぜか。
たぶん、それは「社会に許可をもらっていないから」なんだと思う。
SNSが発達した今、私たちは無意識に「いいね」で承認を求めるようになった。 誰かに「それでいいよ」と言ってもらえないと、自分の気持ちに自信が持てない。
Aさんが仏壇の前で泣いたのも、誰かに「許可」を求めていたからかもしれない。 夫に、直接「いいよ」と言ってほしかったのかもしれない。
あなたは、誰かを愛したことがあるか。
その人がいなくなったとき、「またいつか誰かを愛せる」と思えたか。
思えなかった人は、たぶん、本気で愛していた人だ。 思えなかったからこそ、いつかまた誰かを好きになったとき、ひどく戸惑う。
その戸惑いは、弱さじゃない。
SNSに流れる「死別後の恋愛、許されますか」という問いに、正解は出せない。 出す必要も、ないと思っている。
ただ、ひとつだけ言えることがある。
「罪悪感を感じている」ということは、 あなたがちゃんと、誰かを愛した人間だという証明だ。
…それだけで、少し、胸が軽くなったりしないだろうか。
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